1990年代初頭は数万人やった。30年で約10倍以上に膨れ上がった。
そして今、各地で「土葬墓地を作らせろ」という要求と、地域住民の反対が衝突してる。
この軋轢の正体を、数字で診てみる。
俺が今回言いたいのは「誰が悪い」やない。「人口規模が変わると、以前は個人の選択で済んでた話が、社会全体の問題に変わる」という構造の話や。
「以前のムスリムは郷に従って火葬を受け入れてきた」——これは事実や。でも、数万人の時代と42万人の時代では話が変わる。人口規模が増えれば、個人の選択が集合的な要求になる。これは数字の話であって、誰かを責める話やない。
火葬は日本の「慣習」やない。公衆衛生・土地の有効活用・宗教的中立性という複数の合理性に支えられた、99%が選んできた文化や。
日本人がムスリム圏の国に行って「火葬させてくれ」と要求したら、どうなるか。多くの国では難しいか、受け入れてもらえへんやろ。それが「文化の違い」というもんや。
「逆の立場やったらどうする」という問いは、感情論やない。相互性(reciprocity)の原則——これはCPA的に見ても、人間関係でも、国際社会でも、取引の基本原則や。
日本人が感じる違和感は「異文化への嫌悪」やなくて、「相互性がない」という感覚からきてる部分が大きいと思う。
PTとして体を診る時、「症状が出てる場所」と「原因のある場所」は違うことが多い。今、各地で起きてる土葬墓地をめぐる住民反対運動——これは「ムスリム vs 日本人」の対立やない。
症状:住民の反対運動、町長選での争点化、闇土葬の発生
原因:「人口を増やした側(国)が、その文化的摩擦に対して何の備えもしてこなかった」という構造的な問題や。
大分県日出町では、別府ムスリム協会が手続きを進め住民と合意したのに、町長選で反対派が当選して計画が白紙に。宮城県知事が整備を検討したら市町村長から難色を示されて撤回。
これ、「文化の衝突」というよりも「誰も責任を取らへん状態で、現場だけが押しつけられてる」構造の問題や。
俺が思う問題の核心はここや。
「多文化共生」という言葉は、『どの文化を、どこまで』という定義を持ってへんまま使われすぎてる。
「共生」には前提がある。互いに相手の文化をリスペクトし、その国の基本的な慣習のコスト(折り合い)を払い合うことや。それなしに「共生」とは言えへん。
日本人の多くが感じてる違和感は「外国人が嫌い」やない。「自分たちの文化・慣習が、相互性なしに変えられていくこと」への不安やと思う。この感覚を「差別だ」と切り捨てることが、むしろ分断を深めてると俺は思う。
どのスピードで、どこまで受け入れるかを、感情ではなく数字と論理で議論できる社会であってほしいと思う。
それを「差別だ」と封じることが、正直な議論を潰してきたんちゃうか。
「火葬99%の国に来て土葬させろ」——この要求に違和感を持つことは、正直な感覚やと思う。その感覚をちゃんと言語化して、数字と論理で議論することが大事やと俺は思う。
「差別」と「正当な問題提起」は違う。文化的な摩擦を「差別だ」と封じることは、問題の解決ではなく先送りや。
人口が増え続ける中で、「郷に入っては郷に従う」という原則をどう機能させるか。それを議論できる社会であることが、俺は大事やと思う。
これが38歳・PT×CPA受験生の、今のところの答えや。
明日を俺の力で(Asuore)